RO/RO ILLINOISにて

大石 富美男

 中国語で五金行とは金物商の事であるらしい。何年か前ロイヤルバイキングスカイで基隆に着いた時、私は船の解体部品を売る鉄屑屋をその裏町て見つけ、すでに当りはつけてあった。店の名は五金行といった。彼等に言わせれば、船は五種類の金属で出来ているという意味であるらしい。鉄の太い鎖、大小様々の錨が狭い土間に山と積まれ、天上からは沢山のランプ類・舵輪・計器類が全く無秩序に、ほこりにまみれてぶら下っている。それは全く鉄屑の洞窟と言うか、鉄の冷たいジャングルの中に住んでいるといった汚い小さな解体屋なのである。私はすでにコロラド(ステーツライン)の船旅で、船の鐘(時鐘)を日本に運び込んでいる。今私の家の玄関にぶら下っている直径四十五センチ、目方は何と、三十八キロという「シロモノ」がそれである。U.S.N(米軍海軍)と刻られ金色に光り輝いているが、五金行の店先に転がっていた時には、まっ黒けの鉄の塊りにすぎなかった。
 次の船旅のひそかな目的は、クラシックな大型テレグラムであった。日本に持ち帰り電気スタンドに改造する計画はずっと以前から考えられていた。折あらば船でいつ、どこから船にのるべきか、先ず計画は綿密に計算された。
 私の外国旅行は大体出発前三ケ月より仕度に掛る事にしている。行く先によっては、その国の地図、言葉、風習、歴史、時には会話のレコードまで手に入れてその発音まで、練習することにしている。いやその前に仕事のやりくりを如何にすべきか、最小の犠牲の範囲内て有をなさねばなるまい。外科医てある私はやっかいな手術と重症患者の入院をどう割り振りするか、それが先ず問題である。どうも私の船好きにも困ったものである。
 かれこれ三十五年船の油絵を画き、船の模型を造り、船の資料を集めてみたものの、やはり「船に乗らずして船を語るなかれ」との結論となったものと思う。家の中を改造してキャプテンルームを造り、壁に大きな穴をあけそれに真鋳の丸窓(ボールド)をはめ込みもう船キチなどという通りいっぺんの病ではなく、麻薬患者のそれの如く、次第に深みにのめり込み、もはや病はつのるばかり、再起不能と相なった次第であります。

 そんなある日僕よりもっと強力な船キチから電話が掛った。相手は名古屋弁である。「おまはん、ローロー船を知っとるかー、いっぺん一諸に「イリノイ」に乗らんか・・・」と来た。全く渡りに船とはこの事であるう。これを絶る事は、「たあけー」である。「ぜひお供します。」という訳で、船はローロー船「イリノイ号」と決った。十二月十四日、神戸マヤ三号埠頭を解纜。クリスマス迄には神戸に逆るという願っても無いラウンド・トリップである。
 RO/RO船についての知識は、未だ簡単な記事しか見当らず、こうなると自分の目て確かめる以外に方法はなかった。貨物船であってみれば今回はタキシードも上下揃いの背広も省略スポーティーな服装が只一着、それに何かの際にと、アメリカ名誉海軍提督の冬服上下だけはスーツケースに入れて行く事とした。

 マヤ三号岸壁は、いつかコロラドで接岸したことのあるバースである。イリノイはすでに船尾のランプウェイを降し、大型フォークリフトが、コンテナーを陸から積み込んでいた。ランプの踏み板は三枚折りで、重量六十トン可能とある。右舷船尾からロールオンする仕組みであり、この船はどの港でも右舷が接岸するわけであります。するとこの船では、左舷側に給水、給油装置があるのではないかと思える。とにかく大きな船てある。乾舷が高いので、タラップを荷物を持って乗船するのが大変である。そこで船尾のランプウェイから乗り込む事にする。次々に乗り込んで来るコンテナーを上下左右に積み分けする指令塔みたいな所に二等航海士がいて、コンピューターによって手際良くフォークリフトをさばいている。何とも変な船である。
 今、上甲板にいたはずの一航が、船内を走り廻る小型ジープで、船内を走り抜けあっという間に岸壁に降り、あっちこっちと走り廻っている。事務長が乗っていない事はすでに知っていた。彼は船を見送ると飛行機で、次港に先廻りをし船の着く前に積荷の段取りを附けてしまう。だから先の港で手を振って別れた事務長が次の港ではもう岸壁で待っているといった案配である。
 船長は忙がしい、一日中自室に戻る事がない。他の士官達もいつもどこがで、何かの機械とにらめっこしている。とにかく大きな船である。引っ切りなしにコンテナーを積み込んでいるのに、船足がちっとも入らない。あとで解った事であるが、五層もある船内各倉は、実はほとんどまだからっぽだったのである。それでもこの巨大な新鋭船は、フルスピードで太平洋、ファーイースト海域をぐるぐる廻っている。然も十三人迄の客室を持って? 私にはなぞが深まるばかりであった。
 船は商業べースに乗ってこそ活きるものである。他社に遅れを取らじとばかり荷を積み、最短距離を真一文字に太平航行してこそ商船である。なりふりかまわず、かせぎまくるのが貨物船であった筈である。ところがおかしい。この船は公称二十三ノットであるが二十八ノットの日もあれば、全くログの発表のない日もある。私には三十ノット以上の日もある様に思えるのだが? それに現在わずか八名の船客しかないのに、ボートドリル(退船訓練)もしばしば行なわれる。もっとも暇なパッセンジャーにしてみれば、これ又楽しみに違いないが...それでも乗組員達は全く真剣であり、ボートを船外に出し、ボートのエンジンをチェックし、船尾甲板の方々から消防ホースが海水を空に巻き散らし虹を作ってくれる。指揮官の一等航海士が、両腕を前でクロスして「消火終了」のサインを出す迄海水を青空にぶっ飛ばすのである。だだっ広いまっ平らの上甲板、その鉄板やステーの頑丈なこと、コンテナーの捕縛装置がヘリ空母のそれと全く同種である事。
 もっと驚いたのは、一番奥の船倉にはまだ新品の巨大なタイヤが何十輪もついたロケットの運搬車みたいな怪物がひっそりと眠っている事、エンジン場にも船橋にも今迄の船には見られなかった面白い点が沢山あり、それを説明してくれた士官が、ジェーンの海軍年鑑を持っていたり、書き出したらきりがないほど、船キチの私には楽しい船内見学であった。然しもうこれ以上詳しく書くのは止そう。あまりうるさく申し上げては、私を二度と乗せられないと困るから。

 さて私の部屋は左舷No6、すばらしいの一言に尽きる。客室だってこんな立派な部屋はそうざらにあるものではない。海に面して二米四方の角窓が二つ、バス、シャワーは勿論、風呂から上って体を乾かすドライヤー?クーラー?まで附いている。同室には某新聞社の取締役の大立物である大人と一諸である。いつも読書三味、かと思いきや寸鉄人を刺す如きジャーナリストの目から見れば、小生如き若僧は無礼千万に違いない。今考えても冷汗物である。本当に「オジサマ」ごめんなさい。さぞかし御迷惑であった事と思います。

 船は次第に南下して行きます。工アコンは充分効いているのに、私には暑くてすでにパンツー丁の生活であります。何もする事がないのが船であり、自分で遊びを作り出すのが、貨物船の魅力でもあります。文字通り仕方がないので、朝早くからパンツー丁の私は、座禅を組む事にしました。それを見て同室の大人は、「ウッ寒い、もう一枚毛布を出そうかしら」と言って寝こんでしまった。私は生来睡眠時間は短い方であり、仕事の関係上(外科)いつ、どこでも全力投球出来なければならないのです。だから夜寝る時は短時間に人の倍以上一気に寝てしまうという特技があります。だから朝も早いのです。船客のラウンジに続いて図書室とカードルーム兼ホームバーがあります。早起きの私は自分でコーヒーを入れ、ついでに味そ汁を作り、隣りのNo5の部屋に住む同行のオジサマ二人にそれを届けるのです。一人は終戦後も長くシベリアで、大根や雑草を如何にして長期保存し、その香りによって混ぜ物の有無を判定するという特技を持ち、帰国後も今尚、自然食の研究生産にその特技を発揮されている元陸軍主計殿であり、もう一人がこれぞ知る人も知る、かつての花の海軍予備学生、明日なきゼロファィターの生き残り、不惜身命の白鉢巻き沖縄の孤島に無念不事着しようとも、酒を飲めば又々出撃という強者、いやどちら様も御立派!とても若輩の小生の出る幕ではございません。

 さて我がイリノイは全速でバシー海峡を南下中と思ひきや、何と船は台湾海峡に入っていたのであります。オール、オートメの洗濯機、脱いだ物を只ぶちこむだけで、後はスイッチポン、誰だって気に入っちゃいます。そこで私とゼロ戦大人とは近づく高雄を想い声高らかに雨夜花(ウーヤーホェ)の大合唱であります。「明日はこの雨上むかも知れぬ」「散るを急ぐな可愛い花よ」「雨夜花、雨夜花、愛風雨吹落地」無人看見毎日怨磋 花謝落上 不再包」唱い終え、ウィスキーの水割りが一杯終るころ、ラウンジュリの機械が止り、ホカホカのオセン夕クの山が出来上りとなる訳であります。

 ガランビ岬(台湾最南端)を廻る事なく船は台湾本島を左に見ながら、高雄の入り口まで来ているのです。山上の大レーダー群はいつでも中国本土に向けております。船はカオシュン(高雄)の新港から入りました。見れば周囲に日本の貨物船も何せきか見えます。やはり異国で見る日章旗はよいものです。時に十二月十六日、PM7:00 高雄四十碼頭に接岸です。高雄の街の灯がすぐ向うに見えます。然しその晩は、我々には理解しがたい恐しくむつかしい手続き上のミスで、上陸は明朝許可となり、鳴呼、断固出撃あるのみと気背っていた。ゼロ戦の勇者も仕方なしかブッカキ氷に並々とウィスキーをぶち込み、又しても雨夜花」を唱うのでありました。

 翌十七日、天下晴れての上陸許可は降りた。すでに岸壁に早朝から待たせてあるオンボロのタクシーに我々四人は乗るが早いか町に飛び出した。先ず高雄の市内を流れる愛河(アイホー)のほとりにある愛河大飯店て、朝食を食う。「謝々光臨。敬請指教」(いらっしゃいませ。又おいで下さい)である。次は澄清湖(チンチンフー)めぐりてある。「曲橋釣月」というロマンチックな名前の九曲橋は、月の水に澄む晩に歩くのが、本当なのかも知れない。途中森の小道があり柳の堤が続き、小高い丘にあづまやがあり、その対岸に七重の塔が水面に映る。ここで「リコーラン」という女優を思い出すのが、我々戦中派、然し周囲を見廻せば、若い台湾のカップルがいっぱい好日和平そのものである。円山大飯店で昼食を取り市内のデパートを廻り帰船する。四時出航お土産はツゲの木で造った七十センチもある藪様が一体。

 香港はモダンターミナル(現代碼頭)という青衣島の対岸、九竜よりはるか遠い郊外のコンテナーヤードである。船尾の巨大なガントリーが鳴って、ランプウェーがゆっくりゆっくり船と岸壁をつなぐ。待っていましたとばかり船内から大型リフトが走り出す。大きなコンテナーを胴体の下に抱きかかえ、陸上を走り廻る高速蟹の如く格好の日本、日立製のキャリアーの群。見る見る内に荷積みが始まる。これではとても香港停泊は長くなさそうである。我々の想像通り、わずか四時間で出港である。それでも「マチ」ヘ行くという我が同志は、車を先ずイミグレの事務所へ飛ばす。これが又香港島にあり日曜日の 頃と来ては持ち時間は後二時間余りしかない。それでも各自目的のお買い物を済ませ、約束の集合場所にちゃんと現われるところは、やはり裏町を知り尽した名パッセンジャーであると只々感心する。
 香港を出ると船は北上し、釜山、神戸へと帰り道に入る。船内はにわかに騒々しくなって来た。それはバードディ、つまりこれよりクリスマスバケーションの始まる日に入ったからである。アメリカ船客(四名)も加わって、ラウンジ、カードルームも各自の部屋の入口、ドアー等に飾りつけを始める。私の描くイリノイのポスターは、船長初め乗船全員のサイン入りて描く一方から誰かが持っていってしまう。一人で四、五枚持って行く奴もいる。カオシュンのデパートで買って来た十二彩色筆は、とうとう海に流した。これがあると僕の仕事が又増えるからである。暑がり屋の私もさすが釜山は寒かった。プルコギ(焼肉)とビール、それにはるかなる日本への国際電話もうそれだけて釜山は終った。わずか十一日間の船旅、最終コースは関門大橋に手の届きそうなイリノイのブリッジ甲板て過した。静かにイリノイの巨体が、日本の水域に入っていった。

「薄日さし、その風すがしき海なりき君住む国よと ひたすら想う。」

「灼の恋する如き陽は沈み 君住む彼方 今ぞ紅い」

「はるかなる 海へたている我が想い 伝ふる業なし 碧きふくらみ。」


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