「秘密のコーヒー茶碗」

大石 富美男


 暮れ,正月の太平洋は物すごいシケ(時化)の連続であった。東京湾を出て,黒潮に乗ったとたん船はローリング(横ゆれ),ピッチング(縦ゆれ)は申すに及ばず,船は波の背に持ち上げられ,奈落の底にたたきつけられる。スクリューは空転し,さらにオイランゆすりと言われるマリリンモンローばりに船の尻を振る動作まで加わるという物すごさ。 白くち切れ飛ぶ厳寒の波頭に太平洋は逆巻き,東に進む私の船は苦難と危険すらも感じさせるほどであった。
 船客の大部分はもう死んだも同然,1日に10回も15回もゲロを吐き続けるしまつ。とても付き合ってはいられない。 しかし,私は酔わない。いや本当のところ少しばかり頭のシンが痛むが,これは寝不足のためである。 何せ出航以来,1日1時間か2時間しか寝ていられないのである。 これは全く重労働以外の何ものでもありません。

 私には今航海に目的があった。200海里法によって,日本の大型遠洋漁業船群が今まで以上に,マリアナセクション(海域)に集中操業することは事実である。そこで,どうしてもその海難と救助活動の基地であるグアム島の合衆国海軍基地を一度見学して置きたかった。合衆国沿岸警備隊(コーストガード)の司令官は,「貴官の申し出を快諾する。ただちに来島されたい。」と海上保安庁を通じて,正式に返電がきた。だから私はこの船に乗っているのです。
 船はご存知,関西汽船の”さんぶらわあ7”である。資格はパセンジャーではなく,船のスタッフドクターという,いわば船会社の廻し者,重役扱いの便乗者であります。 昨年夏の中共航路といい,今回のグアム航路といい,臨時のドクターにもぐり込んでの船旅であります。
 ちゃんと正規のドクターは乗っておりますが,そのお若い先生はめっぽう船に弱く,船が動き出せば一番初めに患者になってしまうような体たらく,飯も食わず,バケツをかかえてひっくり返ったままであります。 そこへ行くと臨時雇いとはいえ,このスタッフドクター,ちょっとやそっとで弱音を吐かないところが唯一の取り得であります。

 さて,横波を喰らい,左舷38度まで傾いた前日とは打って変わり,右にモーグ島,正面にアッソンリング島が見え出したころから海はウソの様に静かになりました。 マリアナ群島に入ったのです。 私の目的とは,グアム島の観光でも,海水浴でもありません。日本の海上保安庁を通してのお墨附き航海であります。
 今までにも何回か,小笠原諸島への救難出動の要請はありました。これはいつも海上自衛隊の救難飛行艇,正式にはUS1と呼ばれる四発の大型飛行艇による出動であります。 岩国基地から飛び立ち,厚木で私が搭乗し小笠原の父島二見湾に着水するものであります。 ところが,今度は違う,今度は船である。私の好きな船の旅を楽しみながら行くのである。だから少し位ゆれたって,私はへっちゃらである。
 まず船内で合衆国海軍礼式参考書を読む。いつ,いかなるときにも,一挙手一投足に間違いがあってはならないからである。 いつものヤキの入っていない船旅と異なり今回はいささか緊張し,いかなる失敗も許されないと私は肝に銘じている。 司令官ボーク大佐との連絡では「接岸後,直ちに司令部に電話せよ,当直士官が貴船を訪船するまで待て,ただし軍装は第三種(白長袖夏衣)着用のこと。……」とある。

 グァム島には唯一つだけ,コマーシャルポートという商船岸壁がある。一万トンの商船が三バイ並んで接ぐことが出来る大きさである。 もう何年も前のこと,P.Oのオロンセイにこの岸壁から乗り込んだ想い出があります。海軍の軍港はこのコマーシャルポートの南側一帯を言います。すべてシークレットゾーン(要塞地帯)であり,一般船舶は入港不可能であります。
 このアプラ軍港に入港する潜水艦は決められた海城内では,完全に浮上し,決められたポジションを決められたスピードで入港する様に,義務付けられております。そうです。この軍港内には世にも恐ろしい原子力大型潜水艦隊が太平洋狭しとばかり,常時にらみをきかせている訳であります。 それに太平洋の補給基地であり,艦船修理基地でもある訳です。その他には当然のことながら,ミサイル発射基地もあり,個々の説明は省略しますが,その広大なべースの見学のために私の乗った船がグァム停泊中,とてもグァム島の観光も,海水浴も,私には外出を許される時間の余裕は全く無いのが,今回のスケジュールであります。

 一般の船客達が入国手続きを行っている間に,私はこっそりひと足先に上陸してしまった。合衆国海軍名誉提督である僕の肩章を見て迎えに来た女性士官は盛んに「アイ・アンサー」と答える。あごを引くと,ボインの胸の金ボタンが千切れ飛びそうな金髪のこの少尉殿,僕が司令官あてに持参した日本人形の藤娘をまるで宝物でも持つ様に,そっと自動車に乗せてくれた。
 海軍基地の入口でコーストガードのオフィスに立ち寄り,秘密地帯の通行証にサインをする。ボイン少尉が言う。「ドクター。車の天井を開けましょうか?」 折角クーラーが良く効いているのに,何も天井を開けることはないと僕はいった。 しかし,これがいけなかった。本当はゲートを入るとき,天井を開けて立ち上り僕が敬礼をすれば,そのままスピードを落さずに格好良く,基地の入口を通り抜けたのである。



 さて,その日の会議が終ろうとしたとき,ボーク司令官が突然言い出した。「Dr.大石を旗艦べースウッドの名誉副艦長に推薦したいと思います。御参列の各提督,艦長各位は……。」 という訳で,僕はその席で副長に就任することになったのです。 べースウッドの艦歴簿にサインし,左脇にかかえていた正帽をかぶると,私はその部屋を拍手に送られて出た。 副司令が先導して司令部前の広い芝生の庭に出る。 真青のグァムの空はまぶしく,透き通って本当に紺碧(こんぺき)の空といいたいほどであった。と,そのときである。 サイドボーイと称する白ずくめの正装した水兵達が両側に並び,何と栄誉礼のラッパが鳴り響いた。僕のホッペタの筋肉が一寸つっぱって緊張していることがよく解った。 僕はその前に進むと立ち止り,星条旗に敬礼した。星条旗が美しかった。マリアナの風に,それは音を立ててはためいていた。
 べースウッドは太平洋マリアナセクションの救難旗艦であります。タラップに当直士官達が並んで迎えてくれる。艦内巡視である。 僕のために作られた艦内作戦服と艦内帽には,副長のイニシャルが背中に大きくついている。士官食堂から始まって兵員居住区,砲塔から爆弾庫,便所から機関室,水兵さんの食堂,それに作戦本部のコンピューターまで……。艦内を見て廻った。

 今私の家の船のコレクション室には,グァム島の精密地図と共にコーストガードのマークの入ったコーヒーセットが,くり抜かれた板にロープのふち取りで止められ,飾られてあります。副艦長就任後,これは一番最初に僕が手をつけたコーヒー茶碗が,そのまま記念飾りとなったのであります。だからこの茶碗はもう二度と使われることもなく,こうしていつまでも飾って置くのだと想います。 決して他人に言ってはならないあの海軍要塞の秘密をこめて…………。


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