名古屋港とフェリー20年  

    大久保敏治


始めに
 早いもので名古屋港にフェリーが就航して今年(92年)で20年になります。名門カーフェリー(現在の名門大洋フェリー)の名前が名古屋・門司の頭文字を取っているということを航路が大阪〜門司になり名古屋航路がなくなった現在知っている人も多くはないでしょう。10年一昔といいますが二昔も前の事を少しほじくり返してみたいと思います。

フェリー就航前史
 1968年8月、阪九フェリーが小倉〜神戸間にフェリーを就航させ日本の長距離フェリーの幕開けとなった。うまく行かないだろうとの一部の声のなか順調な滑り出しを見て各地で長距離フェリーの計画が表明された。
 名古屋港へは阪九フェリー就航の8カ月後の69年4月18日に名門カーフェリーの設立発起人代表が名古屋港管理組合を訪問し新門司〜名古屋の航路開設計画の意思表示したのが始まりで、同年7月に鹿児島郵船が鹿児島〜高知〜名古屋航路開設を表明、70年になって地元資本の太平洋沿海フェリ一、商船三井系列のフジフエリーが航路事業免許を申請し名古屋港に寄港を予定する4社が出揃った。
 鹿児島郵船はその後照国郵船に社名変更し70年2月に71年12月に第一船を就航させると発表、70年5月に日本高速フェリー鰍設立・航路免許の譲渡を運輸大臣に申請、同9月に免許譲渡を行っている。
 太平洋沿海フェリーは大分航路の免許申請は名古屋〜高知〜大分で申請したが70年7月に名古屋〜大分で申請し直している。

フエリー就航
 名古屋港へのフェリー就航一番乗りは日本高速フェリーの「さんふらわあ」で1972年2月1日、まだ名古屋フェリー埠頭が完成しておらず金城埠頭を暫定使用し、3日に1便で名古屋のフェリー時代の幕を切って落とした。
 この「さんふらわあ」は36億円(新日本海フェリーの「すずらん丸』は17.3億円)で建造された日本最大・最高速のカーフェリーとして登場。
 その後名門カーフェリーの「かしい」が5月1日に就航するが名古屋港には寄港せず四日市〜新門司間に就航。
 5月28日には日本高速フェリーの「さんらいず」として進水したがすでに就航して評判になり「さんふらわあ」が定着したためか「さんふらわあ2」として就航し3日に2便体制となる。
 ついで名門カーフェリーの「あつた」が7月に就航しデイリーサービスを開始したが名古屋港に寄港するのは10月まで待たなければならない。

フェリー埠頭の建設
 各社から出された港の用地払下げ申請が名古屋港管理組合にあった。
@名門カーフェリー
 西2区(現在のガーデン埠頭近辺)
 埋め立て地 譲渡
 用地  約66,000u
 水際線 200m
A日本高速フェリー
 金城内貿埠頭内用地分譲
 用地 約16,000u
 岸壁 公共岸壁希望
B太平洋沿海フェリー
 金城内貿埠頭付近に用地水際線の確保
 用地 33,000u
 水際線 200m
 水深 7.5m
Cフジフエリー
 駐車場として当該岸壁近辺に16,500uを貸与又は払下げ希望
 岸壁 公共岸壁を希望

これにたいし名古屋港管理組合は
・分散提供は好ましくない。
・一般貨物船との共同使用は不可能。
・各般社が各自で施設を建設するには二重投資になる部分がある。
・後発会社の用地問題
などの見解を示しカーフェリー専用埠頭を11号地に公益法人(公社)方式により整備する事にした。

フェリー各社の事業免許申請概要
会社 航路 申請 免許 就航予定 便数 時間 G/T 長さ 速力 乗客 トラック
日本高速フェリー 鹿児島〜高知〜名古屋 1969.7.16 1970.4.17 71.10 27.5 8000 170 24.8 1000 150
名門カーフェリー 新門司〜名古屋 1969.7.22 1970.12.18 免許後1年以内 23.0 6500 146 19.0 550 110
太平洋沿海フェリー 名古屋〜高知〜大分 1970.1.30 1970.12.18 免許後2年以内 20.0 8000 160 22.0 1100 100
名古屋〜仙台〜苫小牧 1970.1.30 1971.5.28 免許後2年以内 1/2 35.5 8000 160 22.0 1100 100
フジフェリ‐ 東京〜松坂〜名古屋 1970.4.10 1971.4.30 免許後1.5年以内 12.5 6000 118 20.0 700 105

フェリー各社就航概要
会社 航路 就航 便数 時間 G/T 長さ 速力 乗客 トラック 乗用車 料金
日本高速フェリー 鹿児島〜高知〜名古屋 1972.2.1 2/3 27 11300 185 25.5 1124 100 200 5200〜15500
名門カーフェリー 新門司〜四日市〜名古屋 1972.5.1 1 20 6500 141 23.5 594 90 100 4000〜7500
太平洋沿海フェリー 名古屋〜大分 1972.10.1 1 20 6600 132 22.0 925 57 100 3800〜12800
名古屋〜仙台〜苫小牧 1973.4.1 1 37 9800 167 24.0 693 95 74 6800〜21600
フジフェリー 東京〜松坂 1974.10.17 1 11.5 6700 141 23.5 718 106 68 3000〜16000


名古屋フェリー埠頭供用開始
 建設が遅れていた名古屋フェリー埠頭が10月1日に供用開始、金城埠頭に仮住まいの日本高速フェリーと四日市で折り返し運行していた名門カーフェリーが名古屋フェリー埠頭に寄港開始。これを待っていたかのように太平洋沿海フェリーの「あるかす」も大分航路に就航。
 しかし使用できるバースは一つしか無く日本高速フェリーが4時〜16時半、太平洋フェリーが17時半〜19時半、名門カーフェリーが20時〜22時とバースを使用するため事故などで遅れを出すと他社とのやり繰りが大変で当時の関係者は頭が痛かったとか。
 翌年1973年1月、太平洋沿海フェリーの「あるびれお」大分航路に就航、デイリーサービスを開始。3月に「あるなする」が大分航路に就航。
 第2バースの供用開始された4月1日に大分航路からシフトされた「あるかす」が北海道航路に就航、4日に1便。続いて6月に「あるごう」が大分航路に就航、「あるぴれお」が北海道航路にシフト。
 太平洋フェリーはその後も1974年12月「いしかり」、1975年7月に「だいせつ」を就航させ大分航路・北海道航路ともデイリーサービスとなり、その船隊は6隻 56,997総トンとなり長距離フェリーでは稼働船日本一となる。


オイルショック
 1973年と79年の2度のオイルショックはフェリー業界に大きな影響を与えた。
 74年9月、業績不振を理由に就航2年半の「さんふらわあ」を係船し減便、76年10月には「さんふらわあ2」も係船し「さんふらわあ5」で運行したが78年3月をもって航路休止となった。
 名門カーフェリーは76年4月1日で航路休止。

不運のフジフエリー
 航路申請が4社中最後となったフジフエリーは「いせ丸」が1973年7月竣工、「しま丸」が12月に竣工し、73年中に就航する予定だったが、松坂港での漁業補償のもつれなどから就航がおくれ、一時74年4月就航というパンフレットなども出ましたが実際に就航したのは74年10月17日。途中74年5月に名古屋寄港計画の中止。この間両船は同じオレンジフアンネルグループの日本沿海フェリー(現在のプルーハイウェーライン)に用船され東京〜苫小牧間に就航、「いせ丸」はエンジン不調の修理の「あるびれお」の代船として74年7月に用船されフジフエリーの船としてではなく太平洋沿海フェリーの船として名古屋に入港。
 10月17日の松坂港からの第一便には旅客250人で定員の約4割、トラック35台(104台積載可能)、乗用車35台、本田からの御祝儀の新車30台が積まれたことからもこの航路の行く末が感じ取られる。
 78年2月1日に「しま丸」が運行停止し2日に1便になり、79年9月21日株主総会で解散を決め、10月31日で運行廃止する。その後九州急行フェリーに東京〜松坂航路を譲渡し4週間に2便連行するがそれも81年4月・1日で航路休止となる。

がんばる太平洋沿海フェリー
 オイルショック以降も「いしかり」「だいせつ」を就航させ、77年「いしかり」78年「だいせつ」の船体延長工事を行いトラック積載能力向上を行った。
 また大分航路を途中の勝浦へ寄港させたり、沖縄での海洋博にのべ7便(75年)、ドラゴンズ激励クルーズ(75年以降毎年)、小笠原クルーズ(76年以降毎年)など積極的な経営を行った。しかし、影響も大きく

料金改定
 @74年9月40%
 A76年8月20%
 B77年10月8%(北海道航路のみ)
 C79年1月5%
 D80年8月14%

航路
 75年11月大分航路減便
 80年4月大分航路休止

 そして二度にわたるオイルショックを乗り切れずとうとう1982年太平洋フェリー鰍設立、太平洋沿海フェリーから船・航路の譲渡を受けて運行開始。

新生太平洋フェリー
 新しく生まれ変わった太平洋フェリーですが、北海道航路のみの毎日運行を行っていましたが北海道〜大洗航路開設にともなう航路調整で1985年1月「たいせつ」を東日本フェリー鰍ノ売却し名古屋〜苫小牧航路に2隻、仙台〜苫小牧航路に1隻の配置で名古屋〜仙台は2日に1便、仙台〜苫小牧は1日1便の就航となった。
 社名と船の塗装が変わったものの、建造後15年を過ぎた「あるかす」の代替建造で客船にも劣らない「きそ」を就航させ、ついで「あるびれお」の代替「きたかみ」そして最後に「いしかり」の代替で超フェリー「ニューいしかり」を誕生させた。
 また、女性航海士を日本で一番最初に採用するなどの積極的経営方針の伝統は受け継がれている。



彼女たちのその後

 名古屋港に来ていたフェリーのその後は

◇日本高速フェリー
 名古屋〜高知〜鹿児島航路で華々しくデピューした「さんふらわあ」「さんふらわあ2」はその後大洋フェリーで働き、1984年12月から関西汽船で現在も大阪〜別府航路に現役で働いています。フェリー界の金さん銀さん的存在か?

◇名門カーフェリー
 「かしい」76年4月に航路休止で係船されたが10月には日本カーフェリーの「さいとばる」として神戸〜日向航路に就航、78年9月6日台風のため瀬戸内海を通って神戸から日向に向かう途中、来島海峡で韓国のタンカーと衝突、幅5mのV字型の穴があき浸水、乗客199人は全員ボートで離船、乗用車トラックを乗せたまま修理のため曳航中浅瀬に乗り上げ転覆。「あつた」は一時同社の大阪〜新門司航路で働いていたがその後ギリシャに売船。

◇太平洋フェリー(太平洋沿海フェリー)
 「あるなする」就航2年半で航路減便で75年10月係船、12月より日本カーフェリーの「えびの」として神戸〜宮崎航路に現在も就航中。
 「あるごう」大分航路の廃止(80年4月)とともに関西汽船に売却、11月より関西汽船の由緒ある名前を貰い「フェリーこがね丸」として再デビュー、就航4日目来島海峡で座礁、これに「あいぼり丸」が追突右舷船尾に亀裂が入るという事故を起こした。その後名門大洋フェリーの設立に伴い「ぺがさす」として大阪〜新門司航路に就航後海外へ売船。
 「だいせつ」航路調整で85年l月に東日本フェリーへ売却、3月より「ばるな」として大洗〜室蘭航路に就航、その後「びくとりい」就航に伴いギリシャに売船。
 「あるかす」太平洋沿海フェリーの一番船として就航以来15年間頑張ってきたが「きそ』就航に伴い87年11月ギリシャに売
船、「イオニアン ギャラクシィ」としてギリシャ〜イタリア間に就航。
 「あるぴれお」「きたかみ』就航に伴い89年10月ギリシャに売船、「イオニアン アイランド」として頑張っている。
 「いしかり」超フェリー「いしかり」就航に伴い91年4月ギリシャに売船「あるかす」「あるびれお」のランニングメイトとしてギリシャで活躍中。なお「いしかり」就航後1週間くらい新旧の同じ名前の船が就航したのでまぎらわしかった。

◇フジフエリー
 「いせ丸」78年12月より日本カーフェリ一の「みやさき」として神戸〜日向航路で現在も活躍中。
 「しま丸」78年3月より関西汽船の沖縄航路で「フェリーくろしお」として現在も活躍中。
(日本カーフェリーはその後シーコムフェリー、そして現在マリンエキスプレスと社名変更している)

おわりに
 一時期フェリー埠頭に10隻のフェリーが就航して華やかだったのですが、現在、太平洋フェリーが2日に1便と有村産業のRORO船(人は乗せない)が週1便が使用するという寂しい限り。
 しかし他社が撤退するなか太平洋フェリ一ただ一社が頑張り、定期航路だけではなく、空き時間の伊勢湾クルーズ、正月恒例となった小笠原クルーズ、昨年から始めた沖縄クルーズ、多くのフェリー会社は正月は運行を停止して乗組員を休ませている中、儲けだけではなくお客さんに船旅を楽しんで戴こうという考えがなければとても出来ないことではないでしょうか?
 これからも「頑張れ太平洋フェリー」


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